前回の記事で、ひとりの大学生がアセローラに情熱を注いだ話をお伝えしました。 並里康文氏、1982年に大学院を修了したばかりの青年です。彼が故郷の本部町でアセローラ栽培を始めると決意したとき、味方はほとんどいませんでした。それでも諦めなかった理由を、今回はお伝えします。
200軒以上の農家を、ふたりで回った
康文氏が最初にしたことは、地元農家への説得でした。妻の哲子氏とともに、本部町の農家を200軒以上訪ね歩きました。
「これからの本部町を支える産業になる」と説いて回りましたが、返ってくる言葉は冷たいものでした。「学者の言うことは机上の空論だ」「前例のない作物で失敗したら誰が責任をとるのか」。ドアを開けてさえもらえないことも少なくなかったといいます。
それでも夫妻は足を止めませんでした。重労働のサトウキビ栽培に疲弊し、後継者不足に悩む農家が多くいることを、康文氏は知っていました。アセローラなら高齢でも取り組める。そう信じていたからです。
結果として、8戸の農家が賛同してくれました。200軒以上回って、8戸。その数字の重みを、私たちは忘れないようにしたいと思います。
妻・哲子氏が解決した、最大の難題
1989年、8戸の農家とともに「熱帯果樹研究会」が結成されました。しかしここで、もうひとつの壁が立ちはだかります。
収穫できても、売れなければ意味がない。アセローラは収穫後3日で傷む。生の果実のまま流通させることは不可能でした。農家が育てた果実を、どうやって換金するか。この問いに答えを出したのが、妻の哲子氏でした。
収穫後すぐに加工する「アセローラピューレ」を開発し、飲食店への販売ルートを切り開いた。そして「農家が育てた果実はすべて買い取る」という仕組みを作りました。生産・加工・販売を自分たちで一貫して担うことで、はじめてアセローラは産業として成立したのです。
康文氏が未来を信じる力で種を蒔き、哲子氏が現実を動かす力で根を張らせた。ふたりの役割は、見事に補い合っていました。
情熱は、次の世代へ
並里康文氏は2009年、50歳でその生涯を終えました。アセローラが全国に知られるよりも前のことです。
その志を引き継いだのが、次男の康次郎氏です。2019年、31歳で社長に就任。両親が築いた6次産業化の仕組みをさらに発展させながら、「アセローラフレッシュ」というブランドの確立に取り組んでいます。
「地域になくてはならない存在になりたい。地元の子どもたちがいつか大きくなって、ここで働きたいと思える会社にしたい」——康次郎氏の言葉には、父が農家200軒を回ったときと同じ熱量が宿っています。
ひとりの青年の確信が、妻の行動力と合わさって、ひとつの産業になった。そしてその産業は今、次の世代の手で育ち続けています。アセローラの赤い実には、そういう物語が詰まっています。
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