前回の記事で、アセローラが沖縄でしか育たないことをお伝えしました。 しかし実は、沖縄とアセローラの関係は、最初から順調だったわけではありません。むしろその逆でした。最初の出会いから20年以上、アセローラはこの島で完全に忘れ去られていたのです。
1958年、6つの果樹が沖縄にやってきた
戦後の沖縄を復興させるために、ハワイ大学教授のヘンリー仲宗根氏が6種類の熱帯果樹の苗木を持ち込みました。1958年のことです。マンゴーやパパイヤなど、今では沖縄の特産品として定着している果実もこのときに導入されています。
アセローラも、その6種のうちのひとつでした。
ところが、他の5種が沖縄の土地に馴染んでいく中、アセローラだけは根付きませんでした。当時の沖縄の気候や土壌にうまく適応できず、栽培のノウハウも誰も持っていない。ようやく実をつけたとしても、3日ほどで傷んでしまう。換金できない作物に、農家が手を出す理由がありませんでした。
こうしてアセローラは、沖縄県農業試験場にわずかな苗木が残されたまま、20年以上にわたって誰にも顧みられない存在となっていったのです。
忘れられた理由は、逆説的に「良すぎた」から
アセローラが普及しなかった最大の理由は、皮肉なことに、その果実の繊細さにありました。
ビタミンCを守るために薄く柔らかい皮を持つアセローラは、だからこそ傷みやすい。輸送に耐えられず、保存もきかない。農業として成立させるには、収穫してすぐに加工する仕組みが必要でした。しかし当時、その仕組みを考える人がいなかった。
見方を変えれば、アセローラはその豊かさゆえに、流通という壁の前で長い間立ち止まっていた果実だったとも言えます。
転機は、ひとりの大学生だった
1970年代後半、琉球大学の農学の授業でアセローラに出会った学生がいました。並里康文氏、後にアセローラフレッシュを創業する人物です。
授業で知ったのは、アセローラが現存する果物の中でビタミンCを最も多く含むということ。そして当時のアメリカでは、ビタミンCブームが起きていた。「10年後には必ず日本にも来る」と確信した彼は、大学院まで6年間、アセローラの研究に没頭しました。
沖縄県農業試験場に残されていたわずか1本のアセローラの樹を探し出し、栽培方法を研究する。その情熱の先にあったものが、やがて本部町を日本唯一のアセローラ産地へと変えていきます。
その物語は、次の記事でお伝えします。
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